creators_voice クリエイターの声

#002
香川県
記憶の残る家を、次の世代へ手渡すということ S様

幼い頃の自分がいた場所

S様にとって、その家は単なる建物ではなかった。それは、まだ世界の輪郭がはっきりしていなかった幼い頃の自分が、確かに息をしていた場所だった。二歳から四歳頃の記憶は、どれも断片的で、光のように曖昧だ。それでも、その空間にいた感覚だけは、今も身体の奥に残っている。

広い空間を兄弟で走り回ったこと。足音が床に響き、誰かの笑い声が後ろから追いかけてきたこと。何をしていたのか、どんな言葉を交わしていたのかは思い出せない。それでも、ただ楽しかったという感覚だけは、確かな温度を持って残っている。幼い自分にとって、その家は世界のすべてだった。怖い場所ではなかった。むしろ、守られているような安心感の中で、無邪気に身体を動かしていた時間だった。

かくれんぼをしたかどうかは覚えていない。押し入れの中に隠れた記憶があるような気もするし、ないような気もする。だが、記憶の正確さは問題ではなかった。確かなのは、そこに自分がいたということ。そして、その場所が、自分の人生の最初の時間の一部だったということだった。

変わった家と、変わらない想い

長い年月が過ぎ、S様は再びその家の前に立った。

長い年月を経て、その家は役目を変えていた。再び足を踏み入れたとき、S様は「パリッと綺麗になって明るくなった」と率直に語った。その言葉には、驚きと安堵が混ざっていた。

天井のつくりや角の形に目を向けると、どこか見覚えがあるような気もするし、初めて見るような気もする。本島の記憶と一致しているのかはわからないと笑う。新しく整えられた空間の中で細部に懐かしさを探す一方で、かつての面影とは異なる新しい空気も感じている。嬉しさがあった。同時に、わずかな寂しさもあった。

それは失われたことへの悲しみではなかった。むしろ、時間が確かに流れたことを実感したときに訪れる、どうしようもない感情だった。かつてここにあった日常は、もう戻らない。けれど、それは消えたのではなく、次の時間へと手渡されているのだと、彼は感じていた。まだ少し寂しさが残る、とも言う。しかしそれは否定ではなく、これから人が集い、時間が重なっていく余白があるという意味に近い。

  

未来へ託した、ひとつの贈り物

家を預けるという決断は、簡単なものではなかった。

だが、家を預けるという決断をした背景には、個人的な事情だけでなく、この地域の変化を見つめてきた時間があった。それはS様に地域全体へのまなざしをもたらした。人口減少や空き家の増加が進むなかで、使われなくなった家が静かに朽ちていく光景を見てきた。かつて誰かが暮らしていた場所が、少しずつ忘れられていく。その寂しさを、どこかで感じ続けていた。

だからこそ、この家に再び人の気配が戻ることに、深い意味を見出していた。

「いろいろ発展していけば、きっと楽しい場所になると思います。」そう語る声は静かだったが、確かな願いを含んでいた。かつてこの家で遊んだ子どもの視点と、地域を思う大人の視点が重なっていた。自分の思い出が宿る場所が、誰かの新しい思い出を育てていく。その循環を想像したとき、彼の中で何かがそっとほどけていった。

周辺にも、これから空きが出てくるだろうとS様は見ている。その現実を、悲観するだけではなく、可能性として見つめていた。

そのときはまた手助けしてほしいと願う。自分ひとりでできることには限りがあることを理解している。それでも、みんなで盛り上げていけたらという思いがある。家を手放したのではなく、未来へ託したのだという感覚が、そこにはあった。

作業の大変さも理解している。古い家を整え、再び人を迎え入れる場所にすることが、どれほどの時間と労力を必要とするのか。その重みを理解しているからこそ、彼は深く頭を下げた。

「頑張ってください」

照れくささから多くを語れなかったと振り返りつつも、どこか満ち足りて安心しているかのような表情を見せる。もし隣に配偶者がいたら、もう少し思い出話もできたかもしれないと少し照れたように笑う。その控えめな言葉の奥に、この場所への深い愛着が静かに滲んでいた。

S様にとってこの家は、過去の象徴であると同時に、未来への贈り物でもある。

幼い頃の自分が走り回った空間は、これから、別の誰かの笑い声を受け止める場所になる。新しい家族が訪れ、新しい時間が刻まれていく。思い出は、形を変えながら受け継がれていく。

家とは、ただそこに建っているだけの存在ではない。そこに流れた時間を抱え、次の時間へと渡していく存在だ。

S様がその家に残したものは、建物そのものではなく、記憶の連なりだった。そして今、その連なりは、確かに次の誰かへと手渡されようとしている。